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| 昭和25年6月15日 北海道虻田郡真狩村字桜川(あぶたぐん、まっかりむら、あざ、さくらがわ)にて、父・松次郎、母・ヨミの第5子(兄1姉3)として生まれる。本名は貴志。稼業は農業で主にジャガイモの生産。いまでも冬になると3mを越す雪が降る |
昭和32年4月真狩村立知来別(ちらいべつ)小学校入学。 子供の頃の写真は、ほとんどありません。いろいろ聞いてみると長男と長女は、まあそこそこ、あるらしいけど末っ子ってどの家もほとんどの子が無いらしい。そういう時代であったし、子育て、畑仕事にも忙しかったのでしょう―笑 小学校と生家は近く、300mほどしか離れていない。 とにかく学校が終わると、畑仕事の手伝いばかり。嫌で嫌でしょうがなかったですよ。当時は勉強のできる子より、学校を休んで家を手伝う子の方が良いとされていましたから。僕は、両方ともあまり・・・。 |
| 昭和38年3月 知来別小学校卒業。卒業生は全部で13名。 僕の時は全校生徒で64名、今は7名だとか、・・・全校生徒の数ですよ・・・。 いつも田舎へ帰って、小高い丘の上にある赤い屋根の小学校を見ると、グッとくるものがあります。そして心の中で叫でびます。おーい、がんばれよ〜って、すると朝礼台とか、鉄棒とかが、返事をしてくれたような気がします。 |
昭和38年4月真狩村立真狩中学校入学。中学校までは、5km、同級生とバンドを作る。担当はドラム。 中学校へは歩いて通いました。小学校は近かったから良かったけど、5kmは大変でした。特に雪の降る日、雪って上から降るでしょ。こっちは、下から降る。正確には下から舞う。傘なんていらない、持っても意味ない、前はちっとも見えない。今になって考えるとよく通ってたなあと思います。 |
昭和41年3月卒業アルバムに「北海の心 満月の姿 演歌!! 細川貴志」と、つづる。この頃には、初恋も体験。 初恋はねぇ・・・みんなよくあるやつですよ。同じクラスの子でね、あの娘がいいとか、みんなで告白したりして、そんなもんですよ。家の仕事を手伝わなくていい日はよく僕の家の納屋に集まってベンチャーズとかをやりました。演歌では、井沢八郎さんの「北海の満月」が好きでね、歌手になった今、あのアルバムを見ると、僕って予言者みたいだなあって思います。でも、この頃は進路のことで両親といろいろありました。 |
昭和41年4月両親の反対を押し切って札幌へ、自動車整備工として住込みで働く。 どうしても農家を継ぐのが嫌で嫌で、どうしても札幌へ行きたい、できれば歌手になりたいって両親に心底お願いしたら、なんとか納得してくれて・・・ 兄も、姉さん達も家を継いでなくて、僕が末っ子だったものだから 僕が継がないと農家をやめなくてはいけないし。でも、なんとか納得してくれて。今は叔父さんが生家を継いでやっています。トラクターだの、なんだのって無い時代だったから、耕して、たね植えして、掘り起こして、収穫し、出荷場へと全部手作業。腰が痛かったことしか覚えてません。 |
| 昭和42年 春 整備工の近くに住んでいるギターの人の紹介でバンドボーイに。昼は整備工、夜はバンドボーイとしての生活が続く。 バンドボーイになれたのは嬉しかったけど、なにしろ昼はまあ、ねむくて、ねむくて。ある日、工場に残るか、夜の仕事をとるか、どちらかにしろって工場長に言われて、工場をやめてしまいました。やめたのはいいけれど、住み込みだったのでアパートも探さなくてはならないし、お金は無いし。大変だったけど、すごく楽しかったし、恐いものはなかった。 |
| 昭和42年 夏 とりあえずバンドボーイになったが食えない。インスタントラーメンで過ごす日々。 僕が、歌手志望だと周りの人がわかってくると、店の開店前とか、お客さんのいない時とかに、歌わせてもらうことができたんです。ホステスさんとボーイさんしかいないのにドキドキしながら、歌っていました。 |
| 昭和42年 秋 昼間の仕事はヘルスセンター(今の健康ランド)の仕事もする。歌や司会、マイクやスタンドの出し入れ、演出にいたるまでするようになった。 当時は、民謡ブームで右も左も民謡だらけ、しかも音響設備が今みたいに良くないのに、朝10時位から、平気でバンバン歌う。あの声はどこから出てくるんだろうと、本当に不思議でしたね。あまり民謡は好きではなかったが"門前の小僧何とやら"で、民謡はだいたい頭の中に入ってしまいました。今となっては、僕のたいへんな財産になっています。 |
| 昭和45年 春 この頃から運が向いてきた。いくつかのナイトクラブから声がかかり、何件かの店をかけもつようになる。 北島さん、森さん、五木さんから沢田研二さんにいたるまで、当時のヒット曲をガンガン歌っていました。ライブステージというものを体でどん欲に吸収していく自分がわかりました。「すすきのの森進一」なんていわれて、少し有頂天になっていました。そんな年頃でした。 |
昭和49年 冬すすきので一番いそがしいクラブ歌手に、東京のプロダクションからさそいが来た。現在所属のバーニングプロの周防郁雄(すほういくお)社長である。 一緒に歌っていた仲間(アローナイツなど)が東京へ行っては、デビューして、うらやましいと思っていましたけど、いまいち売れなくて札幌へ帰ってきた友達もいたし。それに子供が生まれたばかりで、本当に悩みました。女房に「後悔しないように行ってくれば」と言われてふん切りがつき"一年やってダメだったら元のクラブ歌手でいいや"そう思って東京に行く決心をしました。 |
| 昭和50年4月1日 コロムビアレコードより、なかにし礼作詞・中村泰士作曲「心のこり」で、デビュー。いきなりミリオンセラーに。「私バカよね〜」は流行語になり新人賞は総ナメ。新人歌手としては異例の紅白歌合戦にも出場(連続出場中)。 前の年に上京して10曲ぐらいレコーディングしましてね。その中で「心のこり」が一番良いからってことになって、最初は「私バカよね」っていうタイトルだったのですが、コロムビアレコードが社運をかける大型新人が「私バカよね」では、かわいそうだと言うことになり、なかにし礼先生とコロムビアの泉さんというディレクターが相談して「心のこり」ってつけてくれました。本人をはじめ周りのスタッフが予想もしていなかったほど「心のこり」は順調にヒット街道を驀進。 自分ではヒットしているとか良くわからなかったですね。指をさされて「あっ細川だ」とか「私バカよねだ」って言われることが急に増えた。子供とかに言われて、結構うれしかったですよ。初めての給料でカラーテレビを北海道の両親に送ったのかなぁ。何か親孝行でもしないとなあ・・みたいな気持ち・・。 |
| 昭和52年 2作目「みれん心」から「女ごころ」までの5年ほどは「心のこり」を越える大ヒットもなく手さぐりの日々。いつの間にか中堅演歌歌手と言われる年代に。 この頃はコンサートにしても、いろいろ工夫してやったりして、手を抜かず仕事をしていたのが今になってみれば良かったように思います。いろんな意味でもがいていた時期でした。 |
| 昭和56年 春 TBSテレビの「8時だよ!全員集合」でアキレス腱を切り、60日ほどの入院。 坂を上がって滑り落ちるコントだったんです。カカトを蹴られたような感じでね。番組が終わって病院に行くと、手術しますって言われて、2ヶ月の入院、仕事は3ヶ月先までキャンセル、目の前真っ暗ってな感じ。人がテレビで歌っているのを見てアセってました。僕はこのまま終わってしまうのではないかって・・・。 |
| 昭和56年 秋 リハビリをしながら徐々に仕事に復帰。当時歌手としては異例のテレビ朝日「欽ちゃんのドコまでやるの」に出演。細川も無我夢中だった。 久々のテレビだったので大将(萩本欽一さん)に、いやぁテレビっていいですねぇーって言ったら、じゃあ来週もおいでって言われて、それから毎週毎週行くようになりました。あとで大将に聞いたら、あの時のたかし君の言葉はものすごく新鮮だった。だから来週もおいでって言ったんだって。自分では、本当にそんな事を言ったのか今は覚えてません。あるとき大将が、たかし君は歌手だから歌を唄えという。ちょうどレコーディングを終えたばかりの歌があったので、それを聞かせると、明るいし、テンポあるし、お客さんも喜びそうだから、これにしようと決めたのが「北酒場」。歌詞なんて覚えてないから大きなカンニングペーパーを作ってカメラさんの横に。リハーサルでは良かったんだけど、本番ではまわりが暗くなって全く文字が読めない。歌をトチッたらお客さんにバカウケ以来、「北酒場」は、ロックにするわ、民謡調にするわ、振りは付けるわ、番組の中で大いに遊ばれた。 |
昭和57年 春そんな「北酒場」が大ヒット、ミリオンセラー。レコード大賞を初受賞。しゃべらない、笑わない、暗い過去、演歌歌手に対するイメージを細川は打ち破った。笑って明るいネアカの歌い手になった。 大将が「細川たかし」とう人間をまるごと変えてくれましたよね。明るさみたいなものは僕の中にあったのでしょうけど、そんな僕の才能?を引き出してくれたのは大将の力ですよ。大恩人です。 |
| 昭和58年 春 細川たかしのパワーはおとろえず「矢切の渡し」も大ヒット。レコード大賞をとった翌年はヒットが出ないと言われたジンクスを破り、二年連続の大賞受賞。 「北酒場」みたいにテンポのある曲のあとに「矢切の渡し」でしょ。我々スタッフの勝ちですよね。普通は「北酒場」のあとに「矢切の渡し」なんて持ってこないですよ。この曲は名曲ですよね、たしか二十人位の競作だったんじゃないかな。 |
| 昭和59年12月 「浪花節だよ人生は」は、レコード大賞最優秀歌唱賞受賞。この曲も十人ほどの競作となる。「心のここり」で最優秀新人賞。「北酒場」「矢切の渡し」でレコード大賞、この歌唱賞と合わせ、男性演歌で初の三冠王に輝く。 当時、賞関係は盛り上がりがすごくて、世の中の人がみーんな注目していたような、そんな中の受賞でしたから、"歌手みょうり"につきるって感じでした。最近は何か盛上がりに欠けるような、少しさみしい気がします。 |
| 昭和60年〜平成5年 「望郷じょんから」で古賀政男記念音楽大賞受賞。「北緯五十度」「応援歌、いきます」「佐渡の恋唄」「恋の酒」など、着実にヒットを重ね、男性演歌歌手の第一人者として歩み続けてきました。またコマーシャルソングやアニメソングに至るまで、あらゆるジャンルに挑戦して来ました。全ては細川たかしの持っている明るさと素直さと他ならぬ努力の賜物であります。 ここ10年近く、コマーシャルソング、アニメ、ポップス、民謡など本当にいろんな唄をやってきましたよねぇ。どうして、こんな歌を唄わなくてはいけないんだろうと思ったりもしましたよね。一番の原因は演歌歌手の唄える場所が減ったことかなあ。ここんところ歌番組が全くないからねぇ。一つのテレビ局に、一つぐらいあってもいいのにねぇ。一年に一回くらいしか、行かないテレビ局もあるくらいです。 |
平成6年芸能生活20周年。故郷の真狩村にて「いもほりチャリティーコンサート」を行う。(芸能生活5周年、10周年、15周年とやって、今回で4回目)村が感謝の印として、銅像を建てる。佐渡にも「佐渡の恋唄」の歌碑が建つ。 村が僕に銅像を建ててくれるって、たいへん名誉なことですが、うれしいような、恥ずかしいような。あらためて、故郷を大事にしてきてよかたなあと思います。 |
| 平成7年〜9年 演歌番組の数が少なくなる中でも、地道にヒットを出し続ける。紅白歌合戦も24回連続出場。演歌界のリーダーとして、確実に、一歩一歩あゆみ続ける。 海外公演を何回かしてきました。(ハワイ、ロス、サンフランシスコ、バンコク、サンパウロ、韓国、北京)このあいだ、北京に行きまして、あらためて演歌ファンの多さと、熱心さに心をうたれました。"万里の長城"はすごかった。一応、登ったんです。でもいつも思うのは、"日本の良さ"ですね。海外に行くと"ああ、やっぱり日本はいいなぁ"って思いますよね。最近、演歌はどうなっちゃったんでしょうね?って、よく聞かれるんですけど、どうもなってませんよ、普通ですよと応えてます。どこのカラオケに行っても必ず演歌を唄ってますし、NHKのど自慢に行っても、応募者の多くは演歌だし、根強いですよ。ただ、歌番組の数が減ったことと、レコード店で買えなくなってきたことは、残念におもいます。もう少し、年配の方が入りやすいレコード店とか、考えてくれればいいのに。 |
| 平成9年9月11日 北京で行ったチャリティーコンサートの収益金によって小学校が建つ。錦州桃園小学校(きんしゅうたおゆぇんしょうがっこう) |
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平成10年4月
石本美由起先生の作詞家生活50周年を祝って「矢切の渡し」の歌碑ができる。 矢切の渡し舟の所に歌碑を作ったんです。歌碑とかに縁があって、これで5つ目です。
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| 平成11年 芸能生活25周年を迎える。新宿コマでは、1月2月と,2ヶ月公演延べ15万人を動員。 8月14日には、神宮球場にて?史上最大の盆踊り大会?と題して2万人の盆踊り大会を企画。あいにく当日はバケツをひっくりかえしたような大雨にもかかわらず、夕方には奇跡的に止み8000人を動員して大成功のうちに終わる。 |
| 平成14年3月1日 「この蒼い空には」を発表 苦しい時とか、辛いときとかってよく聞かれます。けど、確かにあったのですが、そういう時代があって今の自分がある訳だし、昔の良かったこと、楽しかったことは、笑って話しても、辛かったことなんかは、自分の中にそっとしまっておいた方がいいのでは、その方が細川たかしらしいのではと思います。バブル絶好調の時に、株でいくら儲かった、土地、マンションでいくら儲かったという話を聞けば、僕だっていいなぁっておもいますよねぇ。でも、あなたは歌手なんだから歌で稼ぎなさい。株なんてとんでもない、マンション経営なんてとんでもないって、証券会社の社長も不動産会社の社長も言うわけ。よく聞いてみると、歌以外のことでお金を稼いだのでは、本業に身が入らないからやめなさいということだった。あなたは、それだけのノドを持っているのだから歌で稼ぎなさい。餅は餅屋。株が上がっただの、マンションが下がっただのを気にしていると、本業の歌に身が入らない、とのことだった。友達って、こういう人のことをいうんだなあって、目からウロコが落ちた気持ちでした。 ここまでくるのに、いろいろな人にお世話になりました。整備工時代の人達、バンドボーイ時代の友人、デビューさせてくれた周防郁雄社長、レコード会社、いろいろと応援してくれた後援会の方、バンド、スタッフ、みんなみんな僕のことを本当に大切にしてくれて、ものすごく感謝しています。そして、札幌へ行きなさいと言ってくれた両親。東京へ行かないと一生後悔するからと言ってデビューの決心をさせてくれた女房と、父親らしいこともできなかったけど、グレずに一生懸命がんばっている息子にも感謝しています。それに、いつもいつもこんな私を応援してくれる、ファンの皆皆様すべての人に感謝しています。 これからも、人との出会いを大切にして、声の続く限り、歌を愛する、明るい細川たかしでありたい。 |